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職業奉仕委員会

生き方

稲盛和夫  


 しかし働くということは人間にとって、もっと深遠かつ崇高で、大きな価値と意味をもった行為です。労働には、欲望に打ち勝ち、心を磨き、人間性をつくっていくという効果がある。
単に生きる糧を得るという目的だけではなく、そのような副次的な機能があるのです。ですから、日々の仕事を精魂込めて一生懸命に行っていくことがもっとも大切で、それこそが、魂を磨き、心を高めるための尊い「修行」となるのです。
 
 たとえば、二宮尊徳は生まれも育ちも貧しく、学問もない一介の農民でありながら、鋤一本、鍬一本を手に、朝は暗いうちから夜は天に星をいただくまで田畑に出て、ひたすら誠実、懸命に農作業に努め、働きつづけました。そして、ただそれだけのことによって、疲弊した農村を、次々と豊かな村に変えていくという偉業を成し遂げました。
 その業績によってやがて徳川幕府に登用され、並み居る諸侯に交じって殿中へ招かれるまでになりますが、そのときの立ち居振る舞いは一片の作法も習ったわけではないにもかかわらず、真の貴人のごとく威厳に満ちて、神色さえ漂っていたといいます。つまり汗にまみれ、泥にまみれて働きつづけた「田畑での精進」が、自身も意識しないうちに、おのずと彼の内面を深く耕し、人格を陶治し、心を研磨して、魂を高い次元へと練り上げていったのです。
 このように、一つのことに打ち込んできた人、一生懸命に働きつづけてきた人というのは、その日々の精進を通じて、おのずと魂が磨かれていき、厚みある人格を形成していくものです。 働くという営みの尊さは、そこにあります。心を磨くというと宗教的な修行などを連想するかもしれませんが、仕事を心から好きになり、一生懸命精魂込めて働く、それだけでいいのです。
 ラテン語に、「仕事の完成よりも、仕事をする人の完成」という言葉があるそうですが、その人格の完成もまた仕事を通じてなされるものです。いわば、哲学は懸命の汗から生じ、心は日々の労働の中で錬磨されるのです。自分がなすべき仕事に没頭し、工夫をこらし、努力を重ねていく。それは与えられた今日という一日、いまという一瞬を大切に生きることにつながります。
 
 一日一日を「ど真剣」に生きなくてはならない、と私はよく社員にもいっていますが、一度きりの人生をムダにすることなく、「ど」がつくほど真摯に、真剣に生き抜いていく――そのような愚直なまでの生き様を継続することは、平凡な人間をもやがては非凡なへと変貌させるのです。世の「名人」と呼ばれる、それぞれの分野の頂点を極めた達人たちも、おそらくそのような道程をたどったにちがいありません。労働とは、経済的価値を生み出すのみならず、まさに人間としての価値をも高めてくれるものであるといってもいいでしよう。
 したがって何も俗世を離れなくても、仕事の現場が一番の精神修養の場であり、働くこと自体がすなわち修行なのです。日々の仕事にしっかりと励むことによって、高通な人格とともに、すばらしい人生を手に入れることができるということを、ぜひ心にとめていただきたいと思います。
 
「考え方」を変えれば人生は180度変わる
 人生をよりよく生き、幸福という果実を得るには、どうすればよいか。そのことを私は一つの方程式で表現しています。それは、次のようなものです。

    人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力

 つまり、人生や仕事の成果は、これら二つの要素の“掛け算”によって得られるものであり、けっして“足し算”ではないのです。まず、能力とは才能や知能といいかえてもよいのですが、多分に先天的な資質を意味します。健康、運動神経などもこれにあたるでしょう。また熱意とは、事をなそうとする情熱や努力する心のことで、これは自分の意思でコントロールできる後天的な要素。どちらも1点から100点まで点数がつけられます。
 掛け算ですから、能力があっても熱意に乏しければ、いい結果は出ません。逆に能力がなくても、そのことを自覚して、人生や仕事に燃えるような情熱であたれば、先天的な能力に恵まれた人よりはるかにいい結果を得られます。
 
 そして最初の「考え方」。三つの要素のなかではもっとも大事なもので、この考え方次第で人生は決まってしまうといっても過言ではありません。考え方という言葉は漠然としていますが、いわば心のあり方や生きる姿勢、これまで記してきた哲学、理念や思想なども含みます。
 この考え方が大事なのは、これにはマイナスポイントがあるからです。0点までだけではなく、その下のマイナス点もある。つまり、プラス100点からマイナス100点までと点数の幅が広いのです。したがってさっきもいったように、能力と熱意に恵まれながらも考え方の方向が間違っていると、それだけでネガティブな成果を招いてしまう。考え方がマイナスなら掛け算を
すればマイナスにしかならないからです。
 わが身の恥をさらすようですが、就職難の時代に大学を出た私は、縁故がないために、いくら入社試験を受けても不合格続きで、いっこうに就職が決まらない。それならいっそ、「インテリやくざ」にでもなってやろうか、弱い者がわりを食う不合理な世の中なら、義理人情に厚い極道の世界に生きるほうがずっとましかもしれない―― すねた心で、なかば本気でそんなふうに考えたこともありました。そのとき、ほんとうにその道を選んでいたら、そこそこ出世をして、小さな組の親分くらいにはなっていたかもしれません。しかし、そんな世界でいくら力をつけても、根本となる考え方がネガティブでゆがんでいるのですから、けっして幸せにもなれなかったでしょうし、恵まれた人生を歩むことはできなかったでしょう。
 
 では、「プラス方向」の考え方とは、どんなものでしょう。むずかしく考える必要はありません。それは常識的に判断されうる「よい心」のことだと思っていただければよいでしょう。
 つねに前向きで建設的であること。感謝の心をもち、みんなといっしょに歩もうという協調性を有していること。明るく肯定的であること。善意に満ち、思いやりがあり、やさしい心をもっていること。努力を惜しまないこと。足るを知り、利己的でなく、強欲ではないことなどです。いずれも言葉にしてみればありきたりで、小学校の教室に掲げられている標語のような倫理観や道徳律ですが、それだけにこれらのことをけっして軽視せず、頭で理解するだけでなく、体の奥までしみ込ませ、血肉化しなくてはいけないと思うのです。

心に描いたものが実現するという宇宙の法則
 このようによい心がけを忘れず、もてる能力を発揮し、つねに情熱を傾けていく。それが人生に大きな果実をもたらす秘訣であり、人生を成功に導く王道なのです。なぜなら、それは宇宙の法則に沿った生き方であるからで仏教には、「思念が業をつくる」という教えがあります。業とはカルマともいい、現象を生み出す原因となるものです。つまり思ったことが原因となり、その結果が現実となって表れてくる。だから考える内容が大切で、その想念に悪いものを混ぜてはいけない、と説いているのです。積極思考を説いた哲学者である中村天風さんも、同様の理由から「けっして悪い想念を描いてはいけない」といっています。
 人生は心に描いたとおりになる、強く思ったことが現象となって現れてくる――まずはこの「宇宙の法則」をしっかりと心に刻みつけてほしいのです。人によっては、このような話をオカルトの類いと断じて受け入れないかもしれません。しかし、これは私がこれまでの人生で数々の体験から確信するに至った絶対法則なのです。すなわち、よい思いを描く人にはよい人生が開けてくる。悪い思いをもっていれば人生はうまくいかなくなる。そのような法則がこの宇宙には働いているのです。思ったことがすぐに結果に出るわけではないので、わかりづらいかもしれませんが、20年や30年といった長いスパンで見ていくと、たいていの人の人生は、その人自身が思い描いたとおりになっているものです。ですから、まずは純粋できれいな心をもつことが、人間としての生き方を考えるうえで大前提となります。なぜなら、よい心――とくに「世のため、人のため」という思い――は、宇宙が本来もっている「意志」であると考えられるからです。
 宇宙には、すべてをよくしていこう、進化発展させていこうという力の流れが存在しています。それは、宇宙の意志といってもよいものです。この宇宙の意志が生み出す流れにうまく乗れれば、人生に成功と繁栄をもたらすことができる。この流れからはずれてしまうと没落と衰退が待っているのです。ですから、すべてに対して「よかれかし」という利他の心、愛の心をもち、努力を重ねていけば、宇宙の流れに乗って、すばらしい人生を送ることができる。それに対して、人を恨んだり憎んだり、自分だけが得をしようといった私利私欲の心をもつと、人生はどんどん悪くなっていくのです。
 
 宇宙を貫く意志は愛と誠と調和に満ちており、すべてのものに平等に働き、宇宙全体をよい方向に導き、成長発展させようとしている。このことは、宇宙物理学でいう「ビツグバン・セオリー」から考えても十分納得、説明できるものです。第5章で詳しく述べますので、ここではごく簡単な説明にとどめますが、宇宙には最初ひと握りの素粒子しか存在していませんでした。その素粒子がビッグバンと呼ばれる大爆__発によって結合して、原子核を構成する陽子、中性子、中間子をつくり上げ、電子と結びつき、最初の原子である水素原子を生み出した。
さらにさまざまな原子、そして分子が育まれ、やがて高分子ができ上がり、人類のような高等生物までが生み出された。そういう宇宙の進化のありようを知れば知るほど、すべてを成長させ、進化させていこうという何か「偉大なもの」の意志が介在しているとしか思えません。
 
 私は長くモノづくりにかかわってきて、そのような「偉大なもの」の存在を実感することが少なくありませんでした。その大きな叡智にふれ、それに導かれるようにして、さまざまな新製品の開発に成功し、人生を歩んできたといっても過言ではないのです。
 京セラが手がけるセラミックスはファインセラミックスと呼ばれ、コンピュータや携帯電話などさまざまなハイテク商品に汎用される高度な素材です。このファインセラミックスに関する技術は京セラが世界にさきがけて開発を進め、次々に新しい地平を開いてきたと自負していますが、もともと私はセラミックスの問外漢でした。学生時代は石油化学などの有機化学を専攻していたのですが、就職が思うようにいかず、不本意ながら、京都にあった無機化学の碍子製造会社に入ったのです。ですから、セラミックスに関する基礎的な知識や技術などなかったうえ、その会社も赤字を続けており、粗末な研究設備や装置しかありませんでした。そのため、とにかく毎日現場へ出て、工夫を重ねつつ研究や実験に打ち込むより他に道がなかったのです。
 
 ところが、そんな状況の中、私はわずかな期間で、新しい材料をつくることに成功してしまったのです。それは、アメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック)の研究所が、その一年ほど前に世界で初めて合成に成功したという新素材で、しかも、私が合成に成功したものはまったく同じ組成でありながら、その合成方法はGEと全然異なるものでした。つまり私の方法論は世界に類のないまったくオリジナルなものだったのです。
 精密な設備を使って理論的な実験を重ねたわけではありません。京都のちっぽけな碍子メーカーの、名もない一研究員が、徒手空拳のまま行ったことが、世界のGEに匹敵する成果を上げた――まぐれ当たりとしかいいようのない幸運ななりゆきでしたが、しかし不思議なことに、そうした幸運はその後もずっと続き、その会社を退社して京セラを設立してからも、私と私の会社をどんどん成長させていったのです。